「塔」08年11月号 吉川宏志選歌欄評(09年1月号掲載)
発行済の内容なので自分の執筆部分を引用します。
この号を皮切りに半年間、吉川襴の歌について書く予定です。
以下原稿用紙7枚以上の長文ですのでご了承ください。
なお「塔」では入会一年以内は「若葉集」の襴に掲載され、
その後「作品2」襴掲載を経て会員推薦などにより
「作品1」「月集」と昇襴していきます。
吉川さんは「作品1」または「作品2」の選者です。
月集以外の詠草は毎月ランダムに担当選者に振り分けられ
会員からの選者指名はできない仕組みになっています。
********* 引用はじめ *********
民宿の客ある時もない時も機嫌がよろし池のメダカは 竹之内重信
半年間の選歌欄評を引き受けて、初回の今回がいきなり作品1。歌歴の長い皆さんの歌を評する緊張感でガチガチだった私だが、この歌を見てすうっと楽になれた。人間の事情に関係なく飄々と泳ぐメダカに習い、私も肩の力を抜いて自分なりの評をしていきたい。
五十年前二千円なりし受刑者の手作り書棚は今も廊下に 浜井 鈴子
刑務所家具の即売会は丁寧な細工と手頃な価格で人気だという。この五十年前わずか二千円だった書棚が、半世紀を経て今も廊下にある。作った受刑者のその後は不明だしあるいはこの世に居ないかもしれないが、彼の知らぬところで彼の作品が大切にされている。罪と罰と人生を考えさせられる歌。
ブランコの順に並びて降りる迄父待ちくれしベンチも消えぬ 足立 久子
他の歌から作者の父上は既に鬼籍に入ったと判るが、作者の記憶にはブランコ遊びそのものよりも、幼い自分を待ってくれていた父の姿がある。ベンチが撤去された現在も、そこに座っていた父の残像が成長した作者を見守っている気が、するのかもしれない。
絶対に金の苦労はさせないと言った筈だと義父に責めらる 吉田 健一
こちらは義父の歌だが、この不況下にお義父さんそんなご無体な・・・とは婿は言いづらいかも。娘思いの義父の気持はわかるが。
父母死してわれに残りし夫・子なり子には子ありて子の夫がある 河原 篤子
親を亡くしても作者には家族があり、その作者の子にも家族がある。下句には「たとえ私(作者)がこの世を去っても子には家族がいる」という成人した子への親心も感じられ、事実をあえて歌にすることで味わいが生まれるいい例だと思った。
朝まだき蝉ものうげにふた三声やがていのちの限り沸くべし 加藤美智子
夏は気がつけば蝉の声に囲まれているが、夜明け前は静かなはず。その境目の瞬間を耳でとらえて的確に描写。「べし」が力強い。
あぶら蝉あみ戸に止まり鳴くまひる 帰り来て窓あけられず待つ 藤本 恵子
こちらは昼間の蝉。鳴く蝉の開放感と窓を開けられない作者の閉塞感が、音読すれば(三十一字中十一字と)多用されたア列音で、字づら的には繰り返されるひらがなの「あ」で、表現されている。でも作者にはちょっとお気の毒さまでした。
蝉の声浴びつつゆけば少しづつ頭は広くなる空に向かいて 秋場 葉子
夏の森に足を踏み入れると、奥まるにつれて蝉の声の半円ドームが広がり、側方後方に聴覚アンテナが伸びてゆく気がする。もちろん前方上方にもだ。作者はこの感覚を三句以降で簡潔に言い切った。特に四句に感服。
よちよちとガラスを昇る一匹に背景があり灰色の空 松木のり子
こちらは蝉とは限らないが、ガラスを昇る生き物の向こうに背景があった。言われてみれば当り前だが、見る心が無いと見えないのも事実。「灰色の空」がくっきりと立つ。
お座敷でよろしいですかとたずねつつ下半身へと視線は走る 小島美智子
年配者は座布団を好み若い人は洋室を選ぶ。そんな時代もあったように思うが、今どきは年配者でも体調の加減で、足を降ろせる椅子座を好む場合が少なくない。結句から作者は接客される側だと読み取った。店員の視線はあからさまで不躾だが、通す座敷の座り方が客(作者)の足腰の具合と合うかを見極めようとする、心遣いかもしれない。
眼球のごときやはらかさを持ちて夕日とろりと沈みゆく見ゆ 千名 民時
第一印象で結句の「見ゆ」は無くても?と思ったが、この歌では必然性があるらしい。「眼球」と「見ゆ」、「やはらかさ」と「とろりと」といった縁語使いが効いて、沈む夕日の溶けゆくごとき質感と、見守る作者のリラックスした表情とがうかがえる。
聞き覚えある話し声隣り家の逝きし人の子帰省しており 山内 貞子
隣家から亡くなった人の話し声?声がよく似たその方の子が帰省していたという種明かしだが、作者はさぞ驚いたことだろう。結句で一気に事情が判るが、客観描写に徹したおかげか説明くさくない締め方になった。
大の字になれと畳が呼んでゐる変えたばかりのたたみの声で 塩谷いさむ
立っているのもやっとなほど疲れたとき、私も「地面が私を呼んでいる」を実感した経験がある。作者は変えたばかりの真新しい畳に呼ばれたという。直前の畳替えが重労働だったのだろうか。それにしても「たたみの声」とはどんな声だったのだろう。
ねばねばで厚かましくてやっかいでわれらひとかたまりの人件費 深尾 和彦
結句に驚いた。人減らしで経費削減を望む雇い主の立場から、自分を含む一団を形容した上句の大胆さ。仕事を死守したい被雇用者の一人として、労使間の緊張した空気を(知らぬ人にも)生々しく伝える社会詠だ。
歩道橋の手すりをもっともっともっと高くしてほしいさもなくば 同
作者に解き放ちたい、あるいは解き放たれたいモノや事(あるいは人か人生か?)があるのだろうが、具体的に判らないところが読者の不安をよりあおる。切実な叫び。
激辛のはららで熱き飯にのす文月みたりめの死をききし夕 鮫島 浩子
「はららで」では辞書に無かったが「はららご(=イクラ筋子の類)」のことと推測。「ご」の手書き文字が「で」と誤植されたのかもしれない。いずれにせよ暑い季節に訃報が続いた事実を、汗の出るような食べ物で受け止めようとする作者の行動が面白い。
ヒオウギの咲ける傍えに週に二度黄のゴミ袋並ぶ朝あり 永田 淳
ヒオウギの花にも何色かあるが、この歌にはやはり黄色だろう。私の街でも週に二度、黄のゴミ袋の収集日がある。玄関先に出す自治体も収集場を置く自治体もあるそうだが、丹精されて咲き誇る花の美しさがゴミ袋の生活感で損なわれる残念さは、変わらない。
鎌倉へ抜くる舗道にゆふぐれの風立ちぬ単騎過ぎゆくほどの 村上 和子
馬一頭が通過する程度の風?普段実感することはまず無い感覚だが、なぜか説得力のある比喩だ。鎌倉という地名のせいか競馬場のヘルメット姿の騎手ではなく中世武士の軽やかな騎乗姿が連想された。作者には蹄の音の空耳も、あったかもしれない。
尾根の上にアキツアカネとわたくしと秋田、岩手に手を垂れている 江種 泰榮
登山行を描いた一連の中央に置かれた歌。両足が県境の細い稜線を踏んだとき、作者の全身は二県にまたがっていたという。結句の垂れた両手の先には見下ろす左右の景色が、二句のアキツアカネからは雄大な空が見えるようだ。この県境でなくてもよいが、この景色を追体験しに登山に出かけたくなった。
********* 引用終わり *********
| Permalink
|


Comments